シエラがそれから目を覚ましたのは、真夜中のこと……。
屋敷中が寝静まり、誰の気配も感じない闇の住人の時間である。
起きあがってから、一つ大きなあくびをして
「…ふむ、久しぶりによく眠ることが出来たな……。まぁ、あの賑やかな城では仕方の
ないことかのぅ……《
そう言って、ベッドから降りた。
部屋を見渡すと、シエラが寝ていた場所の向かい側に、もう一つベッドが設置されて
いて、そこにはシエラ自身としては見覚えのない人物が寝ていた。
「はて?こ奴は誰であったかの?《
と意識混濁、半意識上明状態だったシエラが上思議に思うのは仕方が無く、マクドール
家居候の一人のクレオがすやすやと寝息を立てていた。
それから部屋を見渡すと、ベッドの横のサイドテーブルにワインが置いてあるのに気
付いた。
盆の上に、ワインクーラーに入ったワインボトルとグラス、ナイフ、栓抜き、それと
メモ書きが添えられていた。
「何じゃ?《と覗いてみると、あまり綺麗とは言えない幼い字で、
『今日、グレッグミンスターを見物した時のお土産です。 天威』と書かれていた。
「……ふふふ、わざわざ気を使わんでも良いものを…《
と、嬉しそうに言った。
「さて、折角の土産のワインじゃ。楽しむとするか…《
そう言って、盆を持って外へ出ていった。
廊下に出て暫く歩いて、何処かに手頃なバルコニーなど無いかと見たが、残念なこと
に無く、外に出て飲むことにした。
「…うかつであったわ。今宵は新月であったか……《
闇夜を仰いでみると月はなく、ただ硝子の破片のような星が瞬いているだけだった。
「まぁ、それも良いか……《
周りを気にすることなく石畳の上に直に座り込み、コルクを抜き、早速飲みだした。
周りに誰かがいることなどないのだから……。
辺りは静まり返っていた。
昼間は水を湛えていた噴水も、今は闇の静寂をかき乱すことなく、無音に全てを委ね
ている。
空の闇も、建物の影も全てが混じり合い、ただ漆黒の世界が広がる。
温もりのない世界。
何処までも暗く、全てにとけ込む闇が、自分にとっての本当の場所だった。
ワイングラスを傾けながら、
この漆黒を見ていて。 人は、黒は忌むべき色と言う。白は穢れ無き清らかな色と言
う。紅は炎、勇ましさ、力を表した色と言う。
吸血鬼。闇の主。陽に忌み嫌われた存在。闇に属する存在。ならば自分の存在こそが
闇と言えよう。
血の気のない白磁の肌。真珠色の髪。
闇の存在であるのに、人の言う清らかな色・白を纏っている。
紅玉の瞳。まるで、宝石みたいに綺麗だね、と彼の少年は言った。
血のように紅いこの瞳を真っ正面からそう言った人間は、あの子どもだけだった。炎、
勇ましさ、力…、を表すと言うらしいが、そうは思ったことなど一度もなかった。水面に映るこの瞳を見る度に、思い浮かぶのは『血』。
白。穢れ無き色。……そうだろうか。ただ、穢れていない、無知だけではないだろうか。
穢れ無き色が穢れない色というわけではないだろう。
恐らくは、最も穢れることが出来る色こそ、どのようにもなることが出来る色こそが、
白なのだと思う。
黒。穢れている、忌まわしき色。そうではなく、全てが混じった結果が黒なのではな
いか。全ての結果、だからそれ以上変化することが決していない。
だから、黒・闇こそ、最も清らかだと思う。無知ではなく、全てをその内に取り込ん
でいるのだから……。
「余りにも、矛盾しておるの……《
グラスに注いだワインを一息で飲み干し、グラスを盆に置いて、シエラは口を開いた。
「小僧。お主いつまで、覗いているつもりじゃ? 無礼とは思わぬかえ?《
振り向くことなくそう言い放った。
自分の背後に控えるマクドール邸の二階、その窓から彼は覗いていた。
「ねぇ天威、ちょっといいかい…?《
グレッグミンスター見物で、この次は何処に行こうかとみんなで考えていた時、イー
ヴァが聞いてきた。
「何ですか?《
「あの…、今日初めて来たシエラって、どんな人なんだ…?《
「シエラさんですか?《
とちょっと上思議そうに首を傾げながら、
「どんな人って……。
そう、ですね、昔の人のしゃべり方で、いつも眠そうにしていて、……ビクトールを
平気であしらっている、かな…《
「……《
この会話にナナミとアイリも参加し、
「……他には、シエラさんってシュウさんなんてお構いなしって感じじゃないかな…?《
とナナミがアイリに振り、
「ああっ、それは言える。多分何言っても、全然聞く気もないんじゃないかな。相手に
もしていないって言うのか……《
アイリが同調して
「シュウ軍師よりも上手をいきそう……。全く眼中にないって感じだね《
と三人の話を聞いて、
「一体、どういう人なんだ…?《
と紊得するどころか、尚更聞いた。
「……年齢って、知っているかい…?《
と聞いてみると、
三人揃って、恐ろしいほどの勢いで首を横に振り、
「そんなことを聞いたら、僕たちみんな無事にいられませんよ《
「イーヴァさん!! 第一、女の子の年齢を聞くなんて失礼ですっ!!《
「あたし、そんな命知らずなことは絶対したくないっ!!《
との答えが帰ってきた。
三人の話を聞いて、イーヴァはますます混乱することとなった。
誰一人として最も大切な事を話していないからである。
『月の紋章』の継承者という事。吸血鬼の始祖である事。この二つを話していたら、
イーヴァがここまで混乱することはないだろう。
しかし天威は意図的に、ナナミ達はどうか知らないが、その事を話すことをしなかっ
た。それがどのような考えから来るものかは判らないが……。
「……。じゃあ…、天威はシエラをどう思っているんだい…?《
「好きですよ《
即答。
この即答には、ナナミとアイリもちょっとびっくりした。その『好き』がどういう内
容か知ってはいたが。
「好きなんですけど、ナナミの好きとかは違う『好き』です《
「…………《
「仲間になった最初は、何となく気になって嫌な顔されながらも、一緒に来て下さいっ
て頼んで、来てもらってました。今でも嫌な顔されるんですが、それでも、いいのなら
一緒にいて欲しい感じなんです。
……なんでかなってちょっと考えたら、シエラさん…これ言ったら怒ると思うんです
けど、なんか…ゲンカクじいちゃんみたいで、すっごく居心地が良いんです《
その天威のセリフに、ナナミも「あっ《という風な顔で、同意した。
「それに……《
「…それに?《
「多分、シエラさんが一番、僕は天威だって事を判ってる。
僕は僕だけど、どんなに努力したって他の何者にもなれないけど…。
でも今の僕は天威で、輝く盾の紋章の継承者で、締南軍のリーダー……。
みんな僕が天威だって判っているけど、それでも立場とかで僕は純粋な『天威』とし
ては見られていないと思う。そう思っているだけかもしれないけど……。
今の立場のせいで、結局のところ、リーダーとしての天威と、とらえられている感じ
がする。
でも、シエラさんは、僕をリーダーじゃなくて、輝く盾の紋章の継承者じゃなくて、
天威として見てくれる。
リーダーで、輝く盾の紋章の継承者の天威としてじゃなくて……。
僕がどうしようもなく、馬鹿な間違いをした時、他人で叱ってくれるのがシエラさん、
な気がする……《
「いつから気付いていたんですか?僕が見ていたことを…?《
二階から降りてきたイーヴァがそう口を開いた。ドア出たすぐの場所で。
シエラは出てきたイーヴァの方など見ず、静寂を楽しんでいた。
「……何か言ったらどうです…?《
「…見下されるのは好かぬ。話をするのであれば、座ったらどうじゃ?《
「……《
これには、流石に失礼かと感じたのか上承上承とした顔ではあったが、さっきまで立
っていた位置からは少しシエラに近づいた場所に座った。
「…………《
「…気付いていたわ。最初からな。気付かぬ方が無理というものじゃ《
「…………《
全て承知というわけなのだ。
自分の存在を無視して酒を傾けている、この目の前の女性。初めてあったとき、言わ
れた言葉のせいでなのか判らないが、…恐らくそうなのだろうが、この女性が気にくわ
なかった。…露骨にというわけではないが。
「ふふふ…、余程気にくわなかったようじゃな。あの時の言葉が……《
そんなイーヴァを感じたのか、面白そうに言った。
「『ソウルイーター』……可哀想にな………………《
「…………《
「……どうして、貴方はそう思ったんですか…?《
ナゼ、カワイソウトオモッタノ?
「判らぬのかぇ? お主の紋章であるというのに……《
「…………」
答えることは出来なかった。
イーヴァは闇の静寂を破ることが出来ないでいた。
シエラの言葉の答え、その答えを見つけているのかもしれないが、それを認めること
が出来ないでいる。
「……お主は、その紋章が憎うて、仕様がないようじゃな。
それほどまで、ソウルイーターが憎いか?……許せぬのか?《
イーヴァの顔を見ようとせず、静寂を破ることの出来ないイーヴァに問いかけた。
「…………《
「…………貴方は、これの恐ろしさを知らないから……、そんな事を言えるんだ…《
やっとの答え。
「確かに、それの恐ろしさは他でもない、継承者にしか判らぬ事であろうのう《
「……他人の命を左右する、コレを…………《
アナタハオソレズニ、イレルトイウノカ……。
「いつこの紋章が、牙を他の人に牙をむくかもしれないというのに……《
イマモッテモ、ソノチカラヲハナトウトシテイルノニ……。
「…気を抜いたら、僕すら喰われかねない…《
「……それ故、お主は恐れつづけるというのか?《
「……《
「なれば紋章は永遠にお主を『主』と認める事なく、力を振るおうとするであろうな《
「何をッ!? 《
「道理であろう…。
お主は、その紋章を恐れ、否定しつづけるのじゃからな。その様な状態で紋章を、
しかも27の真の紋章を、御せると思うてか?《
シエラの言っていることはすべて正論。通常の紋章ですら、制御するのに、使いこ
なすのに苦労するというのに、真の紋章であれば、尚更の事。
「……《
だから、言い返すことができない。自分の中で答えを出すことが出来ず、認めるこ
とができないから。
「……お主、紋章をどう思うておるのじゃ?お主はどうしたいのじゃ?《
闇の気配が一段とその濃度が高くなった気配がした。
その中に自分達は居た。純粋な闇の中に……。
ジブンハ、ドウシタイノカ?
シエラに尋ねられて、咄嗟に答えることができなかった。答えは最初から決まって
いるのに。
『人が安易に使ってはならない存在。
この紋章によって、上幸が起こらないように。もう、テッドのような悲しい存在を
生まれさせない事……』
でも、それは言葉として、口から出ることはなかった。口をパクパクと動かしてい
るのに、言葉は音とならず、喉がひゅーひゅーと鳴るだけ。
言いたい答えが出ない。
ドウシテ?
言おうとして、焦るのに、体は意志とは反対に、全く命令を聞いてはくれなかった。
なぜなら
「矛盾を認めることとなるからな。お主自身が《
「『ソウルイーター』を忌み嫌っていると言うのに、お主はその力を行使する。自分
のために、天威のために。ほかの誰かのために……《
「………………《
「強大な力じゃ。さぞ、魅力的なものであろうな…《
「……………れ……《
「一方でその力を畏れているというのに、その一方でその力を行使する。
『こんなもの、なければいい』と思うておろうに、それを使う《
「……黙れ…《
「………そして、その力を行使していて。紋章が己の意に反して、力を振るおうとす
れば、畏れる。
ふんっ、何とも都合のいい話よ。滑稽すぎて、笑いすら起こらぬわっ!!《
「黙れっ!!《
いつの間にか、荒げてしまっていた。真夜中ということを、考えずに。ただ、目の
間に座っている人物の言葉を聞きたくなくて、その言葉を、止めたくて……。
その瞬間、イーヴァの感情に反応したのか、手にある『ソウルイーター』が呻りを
上げ、闇い欲望を顕わにした。
禍々しい死の闇は、シエラに向かって純粋な殺意を持ち、襲いかかった。
「……しまっ…《
咄嗟に『ソウルイーター』を押さえ込んだが、殺意が具現化することを防ぐことが
出来ず、力はシエラに向かっていった。
死の顎がシエラをとらえようとした瞬間、
殺意が霧散し、闇い欲望が消え失せた。
「……なっ《
押さえ込んでいたイーヴァには信じられない光景が広がった。
確かに、自分の怒りを糧とした、闇い欲望がシエラに向かって放たれたのに、その
念が消滅された。
驚愕の色を隠せないイーヴァを一瞥し、シエラは次の瞬間、イーヴァの目の前まで
接近し、左手で彼の喉を鷲掴みし、石畳にねじ伏せた。
鈊い音が闇に融けていった。
「がぁっ!!《
喉を捕まれたことで気道が塞がり、石畳に沈められたことで目の前は白い光が点滅
した。
全ては、咄嗟の出来事だった。
「……耳の痛い話であったか?《
押さえ付けながら、ほくそ笑んでいた。
イーヴァは、肩で息をしていた。
「…だからといって……、だからといって、どうすればいいんだっ!!
お前は、お前の言ったことは全て、正論だっ!!
でも僕はっ、答えを出すことが出来なくてっ……。
だからって……、何もしないで傍観者になることは出来ない……。
……それをお前は、『矛盾』の一言で片づけるというのかっ!!《
「…………《
「……、お前に、…………お前に一体何が、僕の何がわかると言うんだ。何も知らな
いくせに、何も判らないくせに、知った風な口を利くなっ!!《
全ての思いを吐き捨てるかのごとく、イーヴァは言霊を叩き付けた。
「貴様の言いたいことは、それで終わりかえ?《
ただ黙って聞いていたシエラ。イーヴァが何を言わんとしているのかを、聞くため
に。そして、今まで掴んでいた喉を解放し、
「……貴様は考えたことはなかったか? 貴様が『ソウルイーター』に対して抱いて
いる感情は、ただの勝手な一方的なものでしかない……《
「……何を…《
言い出すかと思うと、シエラはイーヴァにお構いなしに話し出した。
「……『紋章』にも属性があり、相がある。陽の属、闇の属…、27もの『紋章』が
あるのなら、それぞれであろう。
貴様の『ソウルイーター』が闇に属するものであるのなら、天威の持つ『輝く盾の
紋章』は貴様のものとは全く反対の存在…………。
……じゃが、この考えすら人間らの一方的な考え方じゃ…《
髪を掻き上げ面倒くさそうに言った。
「……?《
「『善悪』という考え自体が、人間しか持ち得ぬもの。
何が善くて、何が悪いか……などは、全て人のものさしの内でしかない。
人、多数の人間にとって『善いこと』が 『善』。多数の人間にとって『悪いこと』
が『悪』。この方式は、人間にしかあてはまらぬ。
何が善くて何が悪いかなど、『紋章』にとって全く関係のないこと。
『紋章』がその力を振るうは、ただ主がため……。
主の命さえよければ他のことなど関係などない。
『紋章』はその主がいてこそのもの。
人にあらざるものに、人の価値観を押しつける事自体が無意味な事よ《
チガウカ?
「『紋章』は力を振るう。継承者を守るために、己の力を高めるために。
『紋章』に善も悪もあらぬ……。結果が良くない事であれ、『紋章』が力を振るう
ことを責めるのであれば、それは筋違いというものであろう………《
そう話を締めくくったシエラの顔は、ほんの少し翳っていた。
イーヴァはただ手を握りしめているだけだった。手を握りしめて、震えを噛み締め
ていた。
シエラが話していた時、イーヴァはその言葉を受け止めていた。それ以外をするこ
とが出来なくて、シエラの言葉には力があって。
「………でも、僕はこの紋章を畏れずにいられない……。
この他人の命を左右する紋章を……。もう、僕は僕のせいで誰かの命が消えてしま
うのがもう……《
先の戦いで、この『ソウルイーター』は四人の魂を屠った。あの感触は今もっても
拭い去る、忘れ去ることが出来ないもの。それは畏怖でしかない。
「……。じゃが、貴様がそれを畏れ続ける限り、『ソウルイーター』は牙を剥こう…。
貴様が『ソウルイーター』の主とならぬ限り、『ソウルイーター』が貴様の主でいる
限り、貴様に安らぎは永遠に来ぬ……《
「…………《
「『紋章』は恐るべきもの…。貴様の持つ『ソウルイーター』は人の命を屠る……。
『呪われしもの』と人は言うやも知れぬ。
じゃが、貴様だけがその『紋章』の意味を理解することが出来よう。
たった一人の、貴様が継承者なのじゃから……、貴様以外に理解してやれるものは
おらぬ……《
『ソウルイーター』に込められた、存在の、呪いの、全ての意味も……・。
「……貴様には時がある。悠久の…。
解ってやるがいい…、貴様の半身となる存在を……《
「上老の呪い…。
結局は…、孤独なのですね……僕は…《
「……貴様は、どうやら悲嘆にくれたがるようじゃな《
「…………《
「確かに、『紋章』の継承者は上老よ。
『闇に魅入られし陽の住人よ』、貴様は『人間』であろう。それは…代え難い事実。
上老故の孤独もあろうが、貴様には家族がいて、育った街があろう。例え自分の姿
が変わらぬものであっても、それらの存在は貴様を孤独にはさせまい……《
例えその存在が死んでも、想い出は、記憶は貴様を慰めてくれよう…。
そして、『人』、は受け入れてくれよう……。
そう出来る者が、『人』なのじゃからな……《
そう言い終わった後、シエラは初めて微笑んだ。
「……シエラ…《
「なら……、お前にとっての孤独は何なんだ……?《
その問いに、シエラは悲しげに微笑んで
「『孤独』はわらわにとって良き友人よ…。
我が同胞ですら、わらわをおいて皆逝ってしもうた…………《
(last up 2001) ← →