軍師付き、副軍師、副軍師。一度として、『正軍師』であったことはなかった。そし
て今もっても無い。これからも無いだろう。
現在、『副軍師』の役職についてはいるが、『正軍師』としてでも十分だろう。それ
だけの経験を持ち合わせていた。だが、それをしないでいる。自分の役目ではない、と
言うのが本人の言い分ではあるが。
果たしてそれだけなのであろうか?
ビュッテ・ヒュッケ城は蜂の巣をつついたように大騒ぎであった。
突然のハルモニア軍ササライの参戦により、軍の人数が一気にふくれあがり、城の敷
地内は人で一杯だった。以前の、閑古鳥啼く様を知っている人間にとっては、夢のような事であろう。
若き城主トーマスは当然ながら、如何にしてこの膨れあがった城の新しい住人を城に
収めるか、頭を悩ましているのだった。
そしても一方で、違う意味で頭を悩ましている人間がいた。
軍の人数が増えたことによって、一番その煽りを喰らった人間がいるのである。
その人物の部屋は恐ろしいほどに荒れていた。床は書類が広がり海となり、物を置く
ことの出来る場所は書類が積まれ山と化していた。
正軍師シーザーと副軍師アップルの部屋は共通と言うことが災いして、この様に見る
も無惨なものとなってしまっていた。
アップル一人だけであったらこの様な惨状にはならなかったのだが、もう一人の住人
であるシーザーは、とことんその事に関して無関心であった。
結果、部屋は片付けられることなく足の踏み場もない状況になったのだった。
アップルは今日も例に違わず机にかじり付き、書類と格闘。
彼女の仕事は策を立て、兵を動かすことである。
しかしそれだけしておけばいいと言うことはなく、それ以外にも出来ること、せねば
ならないことが山積みだった。常であった。彼女が参加した戦争全て、人手不足で常に
頭を悩まされていた。
そして今回で三回目。もう肝が据わっているというとこか、殆ど動じることなく仕事
をこなしていた。何より、経験がある分手際が良い。
ご存じの通り、彼女の兄弟子シュウは師マッシュから破門を言い渡された後、交易商
として名を上げ、財を築いた人物であった。その妹弟子である彼女に経営の才がないだ
ろうか。否、そんな事がある筈はなく、いかんなく発揮しているのである。
提出された書類に目をやりながら、休む暇なく羽ペンは紙面で踊っている。
アップルは目の前に置いてある書類にサインをすると、提出用の文箱にいれ、ふぅ、
と一息ついた。
流石に、大変なものである。経験してきたことであるから混乱が起こるわけではない
が、それでも何度も体験したいものではない。
着実に増えてゆく兵。それにより発生する問題を解決しながらふと、思ったこと。
「この戦いも、もうすぐで終わるわね……」
それが彼女の結論。予想や希望的観測ではなく、彼女が経験した事から言えることだ
った。
城を見て、兵を見て。恐らく、我々が勝利するだろう。あの初期の頃の敗退の色は消
え失せ、志気は高まり、完全に天を運を味方にしている。
現状で負けることなど、無いだろう。
負ける要素がない。
『炎の英雄』の名の元に集った人間。この大地を守るべく心を一つにした。過去の感
情に蓋をして。
そして、『石板』の名前も埋まりつつある。
「誰があの『石板』運んだのかしら?」
レックナート?有り得ないだろう。彼女自身が動くことはまず無い。絶対に動く必要
がある場合は、『彼』がまず動くのだから。
では、『彼』が運んだというのだろうか?
「……それこそ有り得ないわ」
だって彼は、敵対しているのだから。何の為にわざわざ運ぶ必要があるというのか。
この頃、彼女のペンの速度は鈍っていた。
目に見えて判るほど、と言うわけではなかったが、彼女自身、仕事をこなす速度が落
ちていると気づいていた。恐らくシーザーは気づいているだろうが、その事に関して何
も言ってはいない。大体、確かに速度が落ちてはいるが、それによって支障が起きてい
るわけではないので、彼自身、何かを言う必要はないのだ。
それに、もしかしたら気づいているのかも知れない。
両の手を組んだ間に顎をのせて、溜め息一つ。
「私達……、あの時と同じ事をしてるんだわ…」
思い出される15年前の戦争。
十五年前、自分達は生存を懸けて戦った。諸悪の根元であるルカ・ブライトを倒した
事によって自体は打開へと向かうかと思っていたが、現実はそう簡単なものではなく、
結局、ハイランドという国を滅亡させることとなった。
アップル達は、勝利のために、自分達の英雄に『親友殺し』をさせた…。
親友と全く正反対に立場に立った英雄。彼は自分を信じた仲間のために戦い、勝利し
た。
たった独りの親友を殺めた。…殺めさせた。
あの時、彼は本当にどうしたかったのだろう。本意ではなかっただろう。ただ現実か
ら逃げられなかった。そして、それが結果となった。
「……親友とか、そんな大それた仲じゃなかったけど、それでも、『仲間』。
彼の苦悩、今頃になって判ったわ……」
どれだけ残酷なことだったのかを。そして逃げることが出来ないことを。
思い出される、昔のように笑わなくなった英雄。悲しみに染まっていって、儚げな笑
みしか見せなくなった。
コンコンッとドアをノックする音が聞こえた。
「こんな時間に」と少し訝しげに思いながら、辺りはとっくに闇に包まれ、城の住人
達は就寝の床についている頃であるのに…。
尋ねて来る者は一体誰なのか、とりあえず、「どうぞ」と入室を促した。
「失礼します」
聞こえてきた声は、炎の英雄ヒューゴだった。
「珍しいわね、ヒューゴさん。こんな時間にどうしたの?」
実際、彼がここを訪れるのは初めてなのではないだろうか?普段は一階の広間で用件
を済ましているから、ここに来ることなど無かった。
「ちょっと…、訊きたいことがあって……」
と少し、何か心細げだった。
「…とりあえず、そちらのソファーにでもどうぞ」
流石に突っ立たせているわけにはいかないだろう。仮にもリーダーなのだから。
ソファーに促されて座るヒューゴを見ながら、『今までと、違うな』と漠然と思った。
同じである筈はない。他人なのだから。
イーヴァも天威も同様に、違っていた。でも二人とヒューゴはまた別の意味で違ってい
るような気がした。どこがだろう?
進んで英雄になることを選んだことがだろうか? それは違う。彼ら二人も成り行き任
せなどではない。
では何がなのだろう?
「私はこの席から失礼しますね。まだまだ、こなさなきゃいけない仕事が多いので」
「あっ、いいんです。気なんか使わないでください」
アップルは今まで置いていた羽ペンを持ち上げて、再び書き始めた。今まで休んでいた
くせに、言い訳をしていた。
「それでどうしたんです?……って、そうだ」
「?どうしたんですか」
「そうだわ、話しながらで良いんだけど、目を通してもらいたいものがあるの」
そう言って席を立ち、ヒューゴの前の机に何枚かの書類を置いた。
「何ですか?」
「部隊編成を仕直したので、確認して欲しいんです」
ササライが参戦したために、部隊編成は急務だったのだ。承認が得られ次第、編成を仕
直す必要があるから、ヒューゴの承認が必要だったのだ。
「……すごいですね。もう出来たんですか?」
目を丸くしてこちらを見ている顔は、案外と可愛いものがあった。
「ずっとしてきたことだから。慣れたの」
「ずっとしてきたって?」
「私、色々な戦争に参加したって事、知ってますよね?」
「…うん」
「その時、部隊編成とかをやってたんで、得意になっちゃった、みたいなモノかしらね」
「そんなモノなの?」
「そんなものなんじゃない?」
経験の有る無しは当然だと思う。
「どうかしら?何処かバランスの悪いところってある?」
ヒューゴは書類と睨めっこしながら、暫く間をおいてから答えた。
「はい。良いと思います」
「そう、よかった。じゃあ、明日には部隊編成の通知をしておきますね」
そう言っている間もペンの動きは止まらず、その内に、ペンが紙面に擦れる音ではなく、
パチパチと弾く音が聞こえてきた。しかも一定のリズムの後、ザララッと擦るような音も。
「アップルさん……」
「なあに?」
「この音ってなんですか?」
「ああ、この音?」
そう答えてアップルは手の中に収まっていた木で出来た直方体のものを掲げて見せた。
「これはね、『十露盤』っていってね、東夷の国の方で使われている物で、計算をするの
に便利なの」
「東夷……?、そんな国のものよく持っているんですね」
「これはね、私の兄弟子のシュウ兄さんが私にくれた物なの。私もシュウ兄さんに教えて
もらわなかったら、知らなかったわね」
そう言いながら、パチパチとリズムよく弾いていた。
「ヒューゴさん、ここに来た理由、何なんです?」
暫く経っても話す気配がない。とりあえず訊く以外に方法はないだろう。
「用があって来たんですよね?」
「あぁ…、そうなんだけど……」
「何か聞き難いことでも?」
なら、キッド君がおすすめですよ、とふざけてみた。
暫くヒューゴは口に出すことを迷っていたようだが、決意して口を開いた。
「あのさ、アップルさんは、アップルさん達は『ルック』とどういう関係なの?」
「…………」
「この間さ、酒場で悪いことしたと思ってるんだけど、ビッキー達との話聞いて……。
何となく、気になって……」
居心地が悪そうに目を伏せていた。そして、疑いの目だった。
当然だろう。自分達と敵対している人物を知っているのだから。
「それで、ヒューゴさんはどういう答えを期待しているんですか?」
「どうって、だからどんな関係なのかなって……」
「『仲間』よ。
始めはトランの『門の紋章戦争』で一緒に戦ったわ。私は軍師付き。彼は魔法兵団長。
その次は、デュナンの『統一戦争』。その時は私は副軍師だったし、彼もまた魔法兵
団長。一緒に戦った仲間。何度も顔を合わせているし、当然話もしているわ」
当然でしょう?一緒に戦っていたんだもの。
「それが何か?」
尋ね返されたヒューゴは居心地が悪そうだった。
「何かって…、何で黙ってたの?」
「話す必要なんて無いから。過去の事だもの」
尋ねられたら答えたけど。
「だからって……、何で……」
何をどう言えばいいのか、混乱しているようだった。
「何で、そんなに平然としているんだよ…」
「『軍師』ですもの、当然のことだわ」
『軍師たる者、何時如何なる時であれ冷静であること』。彼女はそれを、兄弟子のシュウ
に教えられた。あの時に。
「軍師だからって……」
「ヒューゴさん、一体何を訊きたいの?貴方は?」
「何で黙ってたんだよ。何で平気なんだよ……」
「必要がないから。それ以外に何があるというの?
私がルックを知っていることが何だというの?確かに仲間だけど、だからといって彼の
弱点を知っていることにはならないのよ。
それに私は軍師です。軍師である者、戦に私情を持ち込むわけにはいかないわ。隠した
いから何も言わなかったわけじゃないわ」
「そんな事じゃなくって……」
「では何かしら、過去の感傷に捕らわれて愚考を犯せと?
役に立たない人道主義を持ち出し、支離滅裂な言い訳をしろというの?」
「違うっ!!」
「何?貴方は何を私に期待しているのかしら?」
「違う、違う…、違う……。
何でアップルさん……、そんなに普通にしてるんだよ……」
仲間なんだろ?何でそんなに殺す手段を考えつくんだよ……。
「貴方は、無力にも噎び泣いて欲しいの?」
「…………アップルさんは冷たいよ…」
「ヒューゴ、貴方がどう感じてるのか分からないけど。
私が何も感じていないと思うの?」
「…………」
「ルックを殺すための策を練ることに、私が何の抵抗も感じていないと思うの?」
「…………」
「言ったわ。仲間だって。私達は仲間なの。もう過去の一〇八星が集うことはないだろうけ
ど、それは今もっても変わらないわ。
その仲間を殺すために私は策を練るの。それは私が軍師だからよ。
私は軍師として生きることを選択したわ。
軍師として生きる以上、その事に伴い発生するであろう様々な事柄を覚悟したわ。生半可
な決意じゃやっていくことなんて出来るものではないの。
ねぇヒューゴ、貴方はこの戦いに伴って、どれほどの人間をその手で殺めたのかしら?」
「!!……」
「単純計算で多くても百人単位でしょうね。
でもね。私達軍師は千人単位で人を殺めていくわ。少ない兵で効率よく、味方の被害を最
小限に押さえ、大勢の敵を倒す。それが私達の生業。
戦いを一早く終わらす為に、私は私の力を振るうわ。それによって、平和を手に入れるこ
とが出来ると思っているから」
矛盾でしかない事ではあるが、それでも戦わざるを得ない。それが現状。
「ルックは確かに私達の仲間よ。でも彼のしたことは赦されることではないわ。
だから私は彼を止める。彼の考え方が間違いであったことを、伝えるために。
それが、私が戦う、彼を知るみんなが戦う理由よ」
完璧な八つ当たり。何が軍師かしら、自分の不完全燃焼の感情をぶつけてるにすぎない…
…。でも、それでも……。
「ヒューゴさん。私はあなたにどのように捉えられても構わないわ…。だって、貴方が信じ
ることが出来ない理由を持っているのだもの」
それでも
「私はどう思われてもいい。でも、この戦いに勝利をもたらしたい、その思いは本当だって事、
覚えておいて下さい」
それは、私だけでなく、ビッキー達も同じだって事を……。
「……ごめんなさい」
ヒューゴはそう、俯いて言うと部屋を出ていってしまった。
『ごめんなさい』。何に対しての謝罪なのだろう?謝るべきはどちらかというと自分の方だと
いうのに……。
「信用……、無くしちゃったかしら…」
それでも、自分の感情を大人げないがぶつけたことによって、幾分かわだかまりを消すことが
出来たように感じる。
この戦いの結果、一体どうなるのだろう。
彼が勝つのか?ヒューゴが勝つのか?それとも、世界が勝つのか……。
ただ、願うのは。何の実のない事なのかも知れないけど、それでも、ただ願うしかなかった。
『彼が救われるように……』
(last up 2003)